植芝盛平

(植芝 盛平、1883年~1969年)

合気道の創始者

AIKIDO

歴史

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調

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植芝盛平

合気道開祖

田辺の少年から武術の先覚者へと至る植芝盛平の道のりは、武術の腕前、精神的な深さ、調和へのこだわりによって形作られた。彼の教えは合気道へと発展し、世界中の稽古人を鼓舞し続けている。

綾部の創業者 1921年

植芝盛平の生い立ち

合気道の開祖・植芝盛平は1883年西之谷村(現・和歌山県田辺市)の裕福な農家に生まれた。父・植芝与六は体力のあることで知られる地元の名士であり、母・植芝由紀は名家・糸川家の出身であった。

子供の頃の植芝は、繊細で内向的、そして本好きだった。地元の寺で中国九経を学ぶ一方、数学や物理の実験にも強い関心を抱いた。体の弱さを心配した父は、地元の漁師の子どもたちと相撲を取ることを勧めた。ダイビングやスピアフィッシングも楽しんだ。

初期のキャリアと武術トレーニング

田辺中学を卒業後、植芝は田辺税務署に短期間勤務した。しかし、漁業権争いに巻き込まれ、退職。1902年に上京し、文房具の卸売業を営む植芝商会を設立。この間、天神心養柔術と 神影流剣術の修行を積む。しかし、残念なことに脚気にかかり、療養のため田辺に戻ることを余儀なくされた。健康回復のため、裸足で野山を駆け巡り、体を鍛えた。

1903年、植芝は日本陸軍に入隊し、柳生心眼流柔術の達人である中井正勝の下で訓練を受けた。行軍と銃剣術の卓越した技術により、彼は“兵士の鑑 “と呼ばれた。銃剣道の教官も務めた。軍人の道も考えたが、結局は父親の意向で家に戻った。1908年には坪井政之助から 柳生心眼流の免許を取得。

田辺に戻った植芝は、父親が自宅の納屋を柔道道場に改築し、高木清一(のちの講道館柔道九段)を指導に招くまで、無目的感に苦しんでいた。柔道に没頭した植芝は、すぐに武道への情熱を燃やし、他の若者たちを引きつけ、一緒に練習するようになった。

北海道開拓と武田惣角との出会い

1912年、植芝は開拓使を率いて北海道に入植した。過酷な環境にもかかわらず、彼は小学校、商店街、住宅地などの インフラ整備に重要な役割を果たした。その指導力から“白滝の王 “と呼ばれた。

この間、虐待された労働者を救うためにヤクザ組織とも対決し、その名声をさらに高めた。遠軽へ出張した際、大東流合気柔術の師範である武田惣角と出会う。深い感銘を受けた植芝は武田の弟子となり、後に白滝に道場を建て、武田を講師に招いた。1915年には大東流の「秘術」免許を取得した。

植芝盛平

合気道開祖

植芝盛平-合気道の創始者

精神的覚醒と大本の影響力

1919年になると、植芝は父が重病であることを知った。その帰途、京都の綾部を訪れ、大本教の指導者である出口王仁三郎に出会った。出口が説く普遍的な愛と調和の教えに深く影響を受けた植芝は、1920年に大本教への入信を決意した。

出口に勧められ、植芝は武道に専念した。植芝は綾部に植芝塾道場を創設し、肉体の鍛錬と精神修養を組み合わせた。1922年、武術を「合気武術」と改名し、 言霊(ことだま)と古事記の精神的概念を統合した

合気道の誕生と東京進出

1925年、植芝の武道的名声は竹下勇提督に伝わり、山本権之兵衛伯爵の前で演武を披露することになった。その技量に感銘を受けた山本は、合気道を家来や武官に教えるよう勧めた。

1927年までに上京し、まず芝に仮道場を構えた後、1931年に光武館道場(現在の合気会本部道場)を完成させた。当初、入門は貴族、警察官、軍人に限られ、志願者には2人の保証人が必要だった。

1930年代から1940年代にかけて、植芝は富山陸軍学校、中野学校、海軍兵学校で軍人の訓練を行った。一方、合気道は大日本武道専好会という組織を通じて普及し続け、129の支部と2,400人以上の会員を擁するまでに成長した。

岩間リトリートと合気道の精神的進化

1935年、植芝は戦争による破壊を予期し、武術と農業を組み合わせた自給自足の生活を目指して 茨城県岩間町に土地を購入した。

1942年東京道場を息子の植芝吉祥丸に託し、岩間へ引き揚げる。ここで合気道の哲学的、精神的基礎を深めることに専念した。一方、合気会の前身である弘道会は、厚生省から正式に財団法人として認可された。

レガシーとインパクト

田辺の虚弱児から武術の先覚者になった植芝盛平の旅路は、肉体の鍛錬、精神的な悟り、人類に対する深い責任感によって形作られた。彼の教えは、調和、無抵抗、身体・心・精神の統一を強調する武道である合気道へと発展した。

今日、合気道は世界中で何百万人もの人々に稽古され、平和と自己向上の道としての武道という植芝のビジョンを受け継いでいる。

植芝吉祥丸

第二道州

合気道を一般の人々が利用できるようにする」という希望

植芝吉祥丸のビジョンと忍耐は、合気道を排他的な武道から 世界的に稽古される規律へと変えた。合気道を一般の人々にも親しみやすいものにする」という彼の理念は、合気道の現代的な発展の基礎となっている。

昭和30年代半ば、本部道場前での開祖と二代目道主・吉祥丸。

合気道拡大における植芝吉祥丸の役割

合気道の歴史を振り返ると、私たちはいつも、すべての始まりとなった武術の天才、植芝盛平の紛れもない影響に立ち戻る。しかし、開祖は当時「合気武道」と呼ばれていたものを、その悪用を防ぐために、軍人、貴族、評判の良い実業家といった選ばれた人たちだけに教えていた。

しかし、合気道の普及を可能にしたのは、その深い価値を認めた人々であった。開祖を東京に招いた竹下勇海軍大将、財界人に合気道を紹介した岡田耕三郎、財団法人設立を強く主張した藤田金弥、資金援助をした宮坂輝三などである。

このような努力の中、合気道を一般の人々にも親しみやすいものとするため、組織を構成する上で重要な役割を果たしたのが二代目道主・植芝吉祥丸である。彼の鋭い洞察力と揺るぎない献身により、合気道は世界的に稽古される武道へと成長した。

戦後日本における合気道の再建

1942年、「合気武道」は正式に「合気道」と改名され、同年、植芝吉祥丸は 早稲田大学の学部生でありながら、わずか21歳で財団法人弘道会 本部道場の館長に就任した。開祖は彼にこう言ったと伝えられている、

“あなたは社会活動の世話をしてください。私は合気道の稽古に残りの人生を費やします”

この頃、すでに太平洋戦争が始まっており、日本は大きな混乱期を迎えていた。

1945年8月15日、終戦を迎えた。道場を死守せよ」という創始者の訓示は厳格に守られ、本部道場は東京の大部分を荒廃させた激しい空襲を生き延びた。道場は戦争犠牲者のための避難所となり、時には100人以上が収容された。その中には、吉祥丸の息子が生まれた後も残った者もおり、息子が5歳になるまで2家族が住んでいた。

道場は無事だったが、焼け野原になった日本の姿は、吉祥丸に大きな衝撃を与えた。昭和天皇の降伏宣言を聞き、友人と皇居の前でひれ伏して涙を流したことを後に回想している。彼の友人の多くは学徒出陣で戦死していた。

彼は生涯、日本武道館に向かう途中、靖国神社を通るたびに黙とうを捧げた。戦没者への深い悲しみと深い尊敬の念が、父の合気道を広める決意を固めた。合気道は日本人の精神を回復させ、戦勝国とも分かち合えるものだと彼は信じていた。

合気道の変遷と戦争の影響

戦後の混乱期にあった1947年、吉祥丸は財団法人弘道会を財団法人合 会に改組した。彼は文部省に財団の定款を改定するよう要望書を提出した。

1948年2月、合気道省は合気道を認可。植芝盛平は正式に合気道初代道主となり、植芝吉祥丸は 本部道場長となった。以後、吉祥丸は合気道の普及に尽力する。

1949年には定期的な練習を再開し、1951年には本部道場を岩間から東京に戻した

植芝吉祥丸

第二道州

合気道を一般の人々が利用できるようにする」という希望

1958年、二代目道主・植芝吉祥丸。

永遠の遺産

吉祥丸の献身的な努力は、合気道を排他的な武道からあらゆる階層の人々が稽古できるものに変えた。合気道を身近なものにするという彼の信念は、今日も合気道の世界的な発展を形作る指針となっている。

彼の努力のおかげで、合気道は現在、彼のたゆまぬ努力によって守られた価値観に忠実でありながら、自己向上、調和、平和への道として世界的に認知されている。

挑戦と成長

彼のアプローチに賛否両論がなかったわけではない。合気会の幹部でさえ、非営利の大学クラブに指導者を派遣するのは間違いだと指摘したという。そのような懸念にもかかわらず、吉祥丸はこの方針へのコミットメントを揺るがすことはなかった。

時を経て、合気道の発展は開祖の正しかったことを証明した戦前に 合気道を 学んだ多くの弟子たちが稽古を再開し、地元に道場を設立した。一方、大学のサークルから社会人合気道サークルが生まれた

文化教育センターで合気道を普及させるというアイデアは、当初は却下された。しかし、吉祥丸の忍耐と根気によって、合気道拡大のもう一つの成功の道となった。

合気道を身近なものにする哲学

吉祥丸のビジョンの根底には、次のような信念があった:

“武道は、年齢に関係なく誰でも実践でき、日常生活と結びついていなければ、現代社会ではほとんど価値がない”

この理念は、戦後の合気道発展の礎となった。これを実現するために、彼は次のような取り組みに力を注いだ:

  • 大学クラブや国際道場への指導者派遣
  • 公共デモの開催
  • 文化教育センターでの合気道教室の開設
  • 合気道に関する書籍の出版


経済的な観点からは、経営者や専門家だけを教える方がはるかに有益だったはずだ。しかし、戦前、合気道の門戸を一部の人に限定していた父とは異なり、吉祥丸は大学生のサークルを優先した

彼は、若い稽古人が卒業後も稽古を続け、やがて社会で影響力のある人物となり、合気道の基盤を強化すると信じていた。

当時、日本の大学の数は少なかったが、豊かな学問的・文化的経験を提供し、将来のリーダーを輩出していた。吉祥丸は合気道をこの新しい世代に根付かせたいと考えた。

植芝盛輝

第三道州


本部道場での稽古は1日1回、植芝家の者が担当すべき」。

道修が四方投げを披露。

植芝盛輝の道州継承

1999年、父である二代目道主・植芝吉祥丸の逝去に伴い、植芝守央が道主を継承。父・植芝吉祥丸道主の指導の下、長年にわたる準備の結果、合気道の発展を円滑に継続させることができた。

植芝吉祥丸は合気道の近代化と世界的拡大に重要な役割を果たした。しかし、晩年は健康を害し、1997年から1998年にかけて何度も入院した。病気にもかかわらず、合気道関連の活動を監督し続け、その責任を果たした。1999年1月4日、77歳で逝去。

継承時、植芝守央は47歳で、父が植芝盛平開祖からその役割を受け継いだのと同じ年齢だった。植芝吉祥丸とともに合気会財団の運営に携わってきた植芝守央は、リーダーシップを発揮する準備を十分に整えていた。彼の継承は、合気道の理念を守りつつ、合気道の世界的な成長をさらに促進することに重点を置き、合気道の遺産を継承することを意味する。

道主である植芝守央は、合気道稽古の基礎となる本部道場での稽古の重要性を説いている。また、合気会財団を監督し、世界中の合気道家を指導し、合気道の伝統を維持する役割も担っている。現在、息子である植芝光輝氏が本部道場館長を務めており、指導者としての責任は次の世代にも引き継がれることが期待されている。

植芝守央の指導の下、合気道は先人の教えに忠実でありながら、世界的な武道として発展し続けている。

出典合気道-和の現代武道」植芝盛輝著。